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活動報告
シリーズ文化資源の愉しみ方 2014年2月12日
第1弾企画『響夜学(ひびやがく)〜経営と文化のいい関係を考える』(全3回)
第3回「宝塚歌劇100年 〜東京宝塚劇場を中心に」
講師:久保孝満氏(阪急電鉄創遊事業本部歌劇事業部 東京宝塚劇場総支配人)
日時:2014年2月12日(水)
会場:千代田区立日比谷図書文化館4階 スタジオプラス  http://hibiyal.jp/
文化資源活用の意義について理解を広める場づくりの一環として企画した「文化資源の愉しみ方」シリーズ。その第1弾として開催する『響夜学(ひびやがく)~経営と文化のいい関係を考える(全3回)』の第3回講演には、阪急電鉄創遊事業本部歌劇事業部 東京宝塚劇場総支配人である久保孝満氏を迎え「宝塚歌劇100年 ~東京宝塚劇場を中心に」と題した講演会を開催しました。

兵庫県の鄙びた温泉地に「宝塚歌劇団」が誕生して100年を迎えます。阪急電鉄を創業し、大衆の生活向上、文化向上を常に考えていた小林一三氏が、「老若男女誰もが楽しめる国民劇」をめざし創設された宝塚歌劇は、いまや日本のみならず海外にも広くファンを獲得しています。鉄道会社がこうした劇団を保有し続け、宝塚歌劇が一世紀にわたって続いてきたのはなぜか。講演では、会社経営と劇団興行との関係性から、文化と経済のあるべき関係を考えます。

宝塚歌劇の創設期、大阪と宝塚を結ぶ鉄道事業の話題から講演はスタートします。都市と都市を結ぶのが鉄道事業の基本。一方は大阪という大都市があるのに対し、もう一方の宝塚は当時何もない街で、旅客誘致の策として温泉場をつくりました。大理石づくりのモダンな温泉場は当時には珍しく一般婦女子を対象とする理念で作られました。さらに温浴場だけでなく大食堂や日本初の屋内プールなど、旅客誘致の目玉作りが進められ、その後、子供博覧会、婦人博覧会、婚礼博覧会などが催されていきました。ちょうどその頃、大阪北浜の三越呉服店に20人程度の少年音楽隊が発足しチャーミングないでたちで好評を得ていたことに着想し、宝塚の博覧会で行う余興を年若い少女を起用してみようと小林一三氏は考えました。こうして満10歳から14歳の少女16名を採用し1913年にスタートしたのが、のちの宝塚歌劇団の前身となる宝塚唱歌隊です。

その後、帝国劇場で東京公演に進出する宝塚歌劇団は、好評を博すものの興行としては苦戦を強いられます。幾つかの劇場や会場を借りて行っていたそれまでのスタイルから、専用の劇場「宝塚大劇場」を創設。その後、東京電燈の再建課題から小林一三氏はその再建に乗り出す過程で、いよいよ本格的な専用劇場となる「東京宝塚劇場」をオープンさせます。

1933年には映画フィルムの撮影・現像を行う、PCL(Photo Chemical Laboratory)を設立し、映画製作にも進出。日比谷・有楽町界隈には、東京宝塚劇場、日比谷映画劇場、有楽座、日本劇場、帝国劇場といった施設が揃います。その一帯を切り取った当時の写真資料には「東京名所 ヒビヤ 有楽街」との表記がなされ「有楽街」の文言には「アミューズメントシティ」とよみがなが振られていました。
開場写真1
開場写真2
開場写真3
開場写真4

客が入らないと成立しない従来の興行スタイルから脱却し、利益を生み続けるための再構築を進めます。公演作品の人気だけに頼らない人件費等削減による経営、一般大衆相手向けに全館均一料金による経営、無駄な食堂設備の排除、収入目標から割り出した経費算出などさまざまな施策を講じ、大衆路線に転換することで利益を生む構造をつくりだしました。

宝塚のビジネスモデルはいつの時代にもフィットするシンプルなもの。ここ10年の観客動員数・稼働率がほぼ100%という実績は演劇界の奇跡ともいわれています。「文化は収支がとれていないと継続できないし、一時的な支援は道楽であり本当の文化支援とは言えず、収支の取れた中で継続的になされなければならない。宝塚歌劇が100年継続できたのは、世代を超えて応援し愛されてこられた熱心なお客様がいてこそ。今後も『生徒(スター)の育成』と『作品力の向上』を進めることに尽きる」と久保氏は力説します。舞台は演じる者とお客様が一緒につくる一期一会の芸術。どちらが欠けても成り立たないという言葉で講演はエンディングへ。その後の懇親会でも、本編では時間の関係で触れられなかった企業と文化のかかわり方について、来場者と尽きることない交流の時間がつづきました。
他の講演
第1回:2013年12月4日(水) 講師: 徳川義崇氏(公益財団法人徳川黎明会会長、徳川美術館館長)
第2回:2014年1月9日(水) 講師: 市村次夫氏(株式会社小布施堂、株式会社桝一市村酒造場代表取締役)

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